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奥村教授の散歩道で感じた

 2007年2月1日の経済リポートに掲載された「奥村教授の散歩道」を読んで感じた事。

 いつもは概ね頷きながら拝読しておりますが,今回の内容については「先生,こういう考え方はできないでしょうか!」と,手を上げたい気分になったので,つらつらと書いてみる。

 「ハトにえさをあげる」「猫を助けてあげる」が,実は「ハトにえさをやる」「猫を助けてやる」が正しい,と言われていますが,私は,現代社会では「あげる」のままで良いと思います。理由はふたつ。

(1)いまや人間は万物の霊長としての資格を喪失している状態のため,まず,人間以外の存在に謙虚にならなければならない
(2)この場合の謙譲語は,それを行なう人に対して向けられたため,そのままでもよい。

 しかし,最後に先生が述べられた「国語の混乱は亡国に繋がる」と言う点はまったくもって同感です。ただし,私感としては言語の用法的精度ではなく,語彙の減少が問題だと思います。良く言われる事ですが,活字離れが進み,世代間の交流が減った今,自分の世代だけで通じる言語を持って良しとしていることを憂いとするべきでしょう。
 自分の気持ちを適切な単語で繊細に表現する手法を持たない(持たせる教育を受けていない)人たちは,自分の限界値が低くなってしまうように思います。その努力をしないから,力に訴えてしまう事が多くなるのでは・・・

 会話は非常にエキサイティングで楽しいものです。ユーモアが混ざれば,なおのこと嬉しいですね。今の若手の漫才師も,人をけなして笑いを取るのではなく,自分の表現で笑わせてみてはどうかと思います。思うに,今のような,ダウンタウンに代表される「対象がなくては成立しない笑い」は,日本では萩本欽一さんが確立してしまったような気がします。坂上二郎さんを相手として追求する事で,笑いをとっていましたよね。それまでの笑いはチャップリンに代表されるように,自分の観察眼の中から編み出されたものです。

 それでも,当時は「コント55号のコントの上だけ」という共通の通念がありましたが,いまや実生活の中にもそんな発想があたりまえのように侵入しています。そういう突っ込みをする人が面白い,賢い,と言う風潮は嘆かわしく思います。

 先生,何とかできないものでしょうか!一緒に考えましょう!