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長久手の事件について

 5月17日から発生した愛知県長久手の「たてこもり」事件について思ったこと。

 未来ある,熱心な警察官の方が流れ弾に被弾し,亡くなられたことについて,まず哀悼の意を表します。親御さんは表現できないお気持ちであることでしょう。

 犯人は投降し,はやくも裁判を見据えたように「殺意はなかった」などと言っているそうですが,過激なことを言いますが,もう,射殺ものですよ。だいたい拳銃を所持していること自体が銃刀法違反なんて生易しいものでは済まないですよ。裁判や法律の用語で「未見のなんとか」って言うのでしょうか,人が集まっている場所に発砲すれば,誰かがどうにかなるかも知れないことくらいわかるはずですから,仮に犯人が「大変なことになってしまった」と後悔の念から自暴自棄になったとしても,責任は問われるべきですよね。

マスコミも「被弾した警察官を救出するのに5時間かかった」などと言ってますが,これ違ったことになってたら,必ず別のテーマを持ち出して警察を糾弾することになってたのでしょうね。

 人をあやめるのには色々な理由があると思うのですが,手法について言えば,たとえば,一般の人ならせいぜい包丁がいいところでしょう。包丁なんて,どこの家にも一本や二本はありますから,普段は家族のために料理を作る,愛情表現のための道具がその瞬間には凶器と化してしまうことはありえます。
 しかし,拳銃は生命をあやめること以外には使用しないものなので,これを所持していること自体が「すでに生命をどうにかする」意志が存在することになりますから,その人間性自体,考え方そのものに危険があることになります。たとえ,身を守るために必要で所持していたとしても, 君子危うきに近寄らず,で,そういう内容には近づかないようにするべきであろうと思うわけです。

 でも,色々と考えてますと,たとえば戦後の日本,いわゆる愚連隊が跋扈していた時代は一般市民も大変だったと思われます。生きるために商売をしていたら,難癖をつけられる,すぐ力に訴えてこられる,そういう時代では,どのように生きてこられたのか,当時の(私の親の世代)人たちの生き様,境遇なんてのは,想像の域を超えるものであろうと思います。

 両親の昔の写真(当然,モノクロ)をみてますと,しかし現在の世相より,明るい感じがするのは私だけでしょうか。いろいろなところで昭和30年代,40年代の写真を見ますが,どこか生命力を感じるのは,物や食糧には困っても,人間としての基本やルールに一貫性や通念があって,それにしたがった未来への希望があったからでしょうか。連帯意識と言うか。

 いま,ビジネスライクに「個性の時代」とか「大衆から分衆,そして個衆の時代へ」とか格好良く言われて久しいですが,結局それって軸を見失ってしまったら

●個人の体験に基づく狭い範疇での自己判断

に依存する人生を送ってしまうことになるので,まとまりにかけるのではないでしょうか。いざと言う時の国家の一大事に参加できなくなってしまうのではないでしょうか。

 話はどんどん変わっていきますが,不良クリスチャンの私としては,やはり軸は神様にあります。いま,とくに日本人は宗教観の喪失と言うか,中心,軸となる存在の意向を考慮しないで,自分の意向を優先してしまう傾向にあるのではないかと思います。
 家庭なら家長(男女,年齢を問いません),地域なら自治体の長,会社なら CEO ,国なら大統領や首相,地球なら???,宇宙なら神さま,と言うように,軸を決められて「こっちの方向だぜ!」っていう人が育たないし,その首長をたてるという意識がなくなってしまっているような。

 宗教の話をすると,嫌う人もおられますが,宗教の目的は宗教をなくすことであると言う点を,良く考えていただければ幸いです。

 ぜんぜん話がまとまりがなくなってしまいましたが,今回の事件でも,家庭内だけのことであれば普通の事件で済んでいたのに,あんなに騒ぎを拡げてしまって,バカとしか言いようがない。(放送禁止用語でしたっけ)
 殉職された警官の身内の方は,死刑にして欲しいと思うかも判りませんし,そのお気持ちは充分理解できますので,同意したいところですが,終身刑相当(無期懲役ではなく)かな,と思いますが,実際の判決はどうでしょう??もっと軽い判決が出るような気がする。

 それよりも死刑にすべきは「親を殺してその首を持って出頭した高校生」ですね。終戦以前の日本であれば間違いなく死刑でしょう。確か,近親殺人は極刑だったような気が。情状酌量の余地がない。

 少年法の改正が云々されていますが,私自身の子供時代を振り返って思うに,昔は

●死刑になるぞ!おまわりさんがくるよ!

というのが,結構効果的な脅し文句で通用していたのですが,今はどうでしょう。

 さっきも述べたように,色々な経験をする機会が減り,地域交流が減って人の意向を汲む訓練がなされていない今の時代では,少年法も厳しくするべきです。

 爆弾発言。

(1)少年法は情状酌量できない場合は一般刑法を適用する
(2)無駄な公共工事(使わない施設)の予算などを地域ボランティア,地域活動予算として振り分ける
 →地域主導で清掃などのルーティンワークを決め,それの告知徹底に予算を使う
 →小学生,中学生は絶対参加,できれば親も
 →その活動時のリーダー(責任者)はその区域で持ち回り
(3)小学校では「ボランティア」の時間を正規授業として週二回,最初の一回は「どこで何をするか」を決める時間,次の時間は実施する時間
 →かわりにパソコンなど IT 教育の時間をやめる,IT教育は高校から
 →パソコンに興味を持つ人は持ちますから,それは家で親と相談してやったらよろしい
(4)国語の時間を増やし,本を読む時間を増やす
 →語彙を増やすことが目的
(5)小学校,中学校に「論理」の時間を追加
 →原因があって結果がある,何かひとつの事象に対して,なぜそうなるか,どうしたら良かったのか,検討する
 →「正解」はでなくても良い,推理洞察する習慣をつけるのが目的(反射的に好き嫌いや興味でものを言うことに対する対策?)
 →逆に,「こうしたい」と思う場合は「どのようにしてそこに到達するか」も考える,結果を導くためにどういうプロセスがあるか,推理する
 →嫌でもやらなくてはならないことに対する耐性をつける
(6)小学校,中学校で「地域参観日」を徹底する
 →「育ての親」を共有する
(7)「宗教」の時間を作る
 →その宗教が起こったいきさつや考え方を,歴史的経緯とともに説明し,世界には「こういう考え方が潜在的にあって,それでこういう行動になる」と言うことを検討する
 →テロなどの大事件の背景を学習する
(8)学校で発生したけがや事故などについて,親はとやかく言わない
 →学校は病院や託児所ではなく,知識を学び,体を鍛え,情操をたくましくする場所であるので,その中ではけがなども発生する可能性は多々あることを親に理解してもらう
 →監督義務違反は別
(9)「愛」の時間を作る
 →愛とは何か,どうすることが,あるいは,どう「しない」事が愛なのか,検討する時間にする

 現実的ではないかなぁ・・・感情が先走りして話がぜんぜん支離滅裂。普段の出来事のうち,事件に転化する瞬間をいかに察知し,いかに良い方向に転換させるか,その能力が問題ですねぇ。死刑にしたって,あの世に行った魂をどう導いていくか,また,私だって,より正しい考え方は何なのか,判らないままにしゃべっているので,烏合の衆の一人には違いないです。はい。